古いばかりが良いとは限りませんが・・

東京都府中市の外壁塗装、塗り替え業者、有限会社不二塗装です。
調布市、昭島市、国分寺市、立川市、など多摩地域を中心に塗り替え、リフォーム施工を行っております。

親父の生家は調布でして、跡を継ぎました兄と私がこの商売に入った頃は、新築の建物でもたくさん現場塗装を行う箇所がありました。

さすがに外壁は吹付タイルやリシンなどの吹付塗装が多かったですが、内部の木枠や建具、階段本体、階段手摺などはオイルスティンで着色の後ニス仕上げ。水回りは水分に強いペンキ仕上が多かったです。

まず木枠を大工さんの仕上げた後にすぐ塗って仕上げ、その後から建具屋さんが建具を吊ったり、追いかけるようにクロス屋さんが入ってきます。
本来ならこれら全ては別々の日に行う事が望ましいのですが、バブル華やかなりしころはそれこそたくさんの建物が建ちましたし、その割には職人に(3Kなんていいましたね、キツイ、キタナイ、キケンだったかな?)なろうっていう物好きはまずいない時代でしたからどこも人手不足。工程はずるずる遅れていって引渡間近、最後の頃は、ほとんど全ての職種が入っているなんてことも珍しくはなかったです。

たいへん精神衛生上良くない環境ですが、めったに喧嘩にならなかったのは、そのほとんどが「顔見知り」の職人だったからでしょう。

みんなで話合いながら結構仲良く仕事をしたものです。ほとんどが木枠絡みだったので、階段をみんなが帰った夕方過ぎに塗ればなんとかなりました。壁はほとんどビニールクロス仕上でしたからね。

もうちょっと以前の親父の代では内部の壁から天井まで全て塗装仕上げなんてことも珍しいことではありません。

内部でクロスを貼るとしても、ビニール製ではない本当の布でした。西陣織とか高級品も多かったですね。

昔、親父に連れられて、クロスを貼る壁の釘頭だけを小さな刷毛で叩いて塗る仕事をやらされましたっけ。これは錆止め替わりですから・・当時の釘はステンレスではなかったということになりますね~。

外部も杉板でペンキ仕上だったり、ベランダの手摺や金物なんかも鉄骨屋さんが錆止めを入れて現場で組み上げたものを塗装する。ベランダの床だって木製のスノコだったりするのでこれも塗装。雨戸も塗装、破風板も塗装。これはこれで結構たいへんです。

和室の柱だって灰汁洗いして、ワックスを掛ける事もありました。

その前の先代、爺様の頃は板塀に柿渋を塗ったり、トタンにコールタールを塗ったりをしていたという話を聞きました。

もちろん洋風の建物はペンキです。

それもほとんど自分のところで材料を練って作る。ボイル油やらプリマ油に色粉を混ぜ込んで作るんですね。さすがにこの頃のことは私にはわかりません。子供の頃夜中の作業場で場で親父が材料をこねている姿はよく見ましたがその頃には「色粉」を使っている風景は記憶にありません。

「昔はこうやって作った・・・」という話はよく聞きましたが。
私が本格的にこの商売を始めた頃ですから35~6年ほど前のことでしょうか、現場に居合わせた植木屋のお爺さんと茶飲み話をかわした時

「ペンキ屋さんはどこから来てるのかね(^^)」
「府中です。親父の生まれはこのあたりだと聞いていますけど・・」
「ほう、(^.^)名前はなんていうのかな?」
「富澤です。親父が次男なんで独立して府中に行きました」
「は~(^o^)じゃあマルフクさんの知り合いかね?」
「マルフクですか?なんだろう(^_^;?」
「ほら、丸の中に福って書いてさ、マルフク。屋号のことさね・・・富澤福太郎さんの店だよ」
「あ~。その人なら私の爺様にあたります。(^.^)親父が次男で不二夫。それで不二塗装。本家はなくなっちゃったんですけどね」
「あらまあ、丸福さんの孫かね・・(^^)」

後から親父に聞いたこと頃では私のお爺さんにあたる「福太郎」さんは、神田の方で修行ののち調布に戻って今の商売を開業したそうです。

屋号は「丸福」。

丸の中に福と書いたのが今でいうトレードマークでした。よく見かける「丸に福の角字」の家紋ではなく、普通の文字でかかれていたようです。
次男である親父は独立後自分の名前「不二夫」から二文字をとって「不二塗装」と店の名前を付け現在に至っています。トレードマークは本人が考えに考えて作ったカタカナの「フ」の字を上下に二つ組み合わせて作ったもの。
昭和40年創業から本年で56年目になります。

親父は僕が生まれたことを機会に独立したので、会社と僕は同い年。創業年数はすぐにわかります(^^)


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